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Kumamoto artículo relacionado "Otro Littleshoemarks"
熊本についてお届けする もうひとつの[小さな靴あと]

Después del terremoto de Kumamoto.
震災後の熊本

肥後弁百人一首のページです。掲載している熊本の文化財についてのちょっとした説明を、 SandíaAmigosが頑張ってお伝えします。スマホで見やすいようにしていますので、パソコン画面で見るとちょっと間抜けに見えちゃうのが、いたらないところですなぁ。

     

Los bienes culturales
スゴロクで紹介している文化財

「読書会小さな靴あと」で作ったオリジナル双六「肥後弁百人一首・季節編」で紹介している熊本の文化財や名勝について、こちらに掲載しているよ!双六のQRコードから移動できるし、こちらからもご興味がある項目の左イラストをクリックしてもらうと、そこまで移動するよ!

「もっとちゃんと百人一首を知りたいよぉ」という人は、読書会小さな靴あとの百人一首のページに行ってみて!

Es un poco de diversión.


primaveraエリア

9番歌小野小町


一心行


15番歌光孝天皇

草千里

33番歌紀友則


熊本城


35番歌紀貫之

東雲楼

61番歌伊勢大輔


高森千本桜


66番歌前大僧正行尊

八千代座

67番歌周防内侍


井樋橋水門

73番歌前中納言匡房

万田坑

96番歌入道前太政大臣


江藤家住宅


春エリア終わり



veranoエリア

2番歌持統天皇


寂心さんの楠

36番歌清原深養父

旧酒井家住宅

81番歌後徳大寺左大臣


細川家御座船波奈之丸

98番歌従二位家隆

青井阿蘇神社

otoñoエリア

1番歌天智天皇


霊台橋

5番歌猿丸大夫

六殿神社楼門

17番歌在原業平朝臣


通潤橋

21番歌素性法師

松浜軒

22番歌文屋康秀


腹切坂

23番歌大江千里

田原坂

24番歌菅家


チブサン古墳

26番歌貞信公

祇園橋

32番春道列樹


鞠智城跡

37番歌文屋朝康

旧第五高等中学校

47番歌惠慶法師


花房飛行場跡

69番歌能因法師

生善院観音堂

70番歌能因法師


水前寺成趣園

71番歌大納言經信

泰勝寺

75番歌藤原基俊


明導寺阿弥陀堂

79番歌左京大夫顯輔

旧高田回漕店

87番歌寂蓮法師


旧宇土郡役所

91番歌後京極攝政前太政大臣

龍驤館

94番歌参議雅經


三角西港道路橋

秋エリア終わり


inviernoエリア

4番歌山邊赤人


田中城跡

6番歌中納言家持

八勝寺阿弥陀堂

28番歌源宗于朝臣


姫井橋

29番歌凡河内躬恒

菊人形

31番歌坂上是則

大川阿蘇神社

農村舞台

12番歌僧正遍照

山が千人灯篭

あがり


熊本城

     


新着情報 一心行
 
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

熊本で一心行の大桜のことば知らん人はおらんとじゃなかろうか。阿蘇郡南阿蘇村にある桜の名木ばい。樹齢は400年程度じゃなかかっていわれとる。大きな大きな桜の木だけん、花が咲く時期にはほんなこつ見事ばい。この地ば治めとった伯耆守惟冬さんの菩提樹になっとると。

戦国時代、南阿蘇村は峯村ってよばれとったと。そこに作られた鶴翼城に住みなはって、三角の矢崎城の城代も兼任してはった伯耆守惟冬さんな、天正8年1580年の阿蘇合戦で亡くなってしまわした。島津義久軍と阿蘇惟光軍に戦いやね。島津氏がまず攻めたのは阿蘇氏の家臣だった中村惟冬さんのの矢崎城やったと。惟冬さんの弟の中村二大夫さんが治めとった綱田城も攻めたと。惟冬さんな城から出て果敢に闘ったばってん、城兵も惟冬さんも討ち死にしなはった。弟の二大夫はその次の日に降伏して城ば明け渡したとよ。

惟冬さんの妻子はごく少数の家臣と一緒に故郷の峯村にひそかに戻って、戦いで亡くなってしもうた惟冬さんや家臣たちの御霊の弔いのために桜の苗木ば植えたと。一心に祈り(行)ばささげとったから、「一心行」って名がついたと。

昭和初期に雷が落ちて、幹が6本に裂けっしもうた。それによってこんもりと枝を広げる美しい形になったとよね。でも平成16年2004年の台風16号と18号に襲われて、主幹の4本のうち2本が折れっしもうた。M字型になってしもうて、今ではちょっと寂しい感じにはなっとるよ。その傷から空洞や腐食菌が進んでしもうたから、「くまもと緑の財団」が養生しとる。



惟冬さんの直系の子孫が、お墓と一緒に一心行の大桜も所有なさっとると。文化財とかではなかばってん、熊本の人たちからは大層愛されとる桜ばい。熊本地震にも耐え抜いて、みんなに勇気ば与えとるよ。


新着情報 草千里
 
君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ

芸能人の森高千里さんは、高森村のご出身でそこには草千里があるから…みたいな理由で芸名がつけられたってきいとるよ。草千里の正式名称は草千里ヶ浜。どこまでも草原が広がる美しい場所とたい。ただ草千里ももちろんやけど、あその草原自体が美しく、また生活を支えてきたとだんね。

阿蘇の草原は約千年前に作られた平安時代の法律「延喜式」に、すでに登場しとると。稲作自体はそれ四日もっと前から始まとったみたいで、縄文時代の遺跡もたくさんあっとよ。稲作を行うには、役牛も育てなんだったし、軍用馬も必要やろ?肥料も作らなん。それには草原を維持することが大切なことだったとよ。放牧、して採草して、そして野焼きというのは昔からずっと続いとるルーティーンよ。

日本書紀には、景行天皇の治世十八年目のこととして、阿蘇の国についたときにのが広く遠くまで見渡せて、それでも人も家もなかったってことが書いてあっと。「どうして誰もおらんのだ」という天皇の前に 阿蘇都彦と阿蘇都媛の2人の神様が表れなはって「どうして人がいないことがあろうか」っていいなはったらしか。その時はすでに広い野原が広がっとったってことが、これでわかると。

平安時代になると「延喜式」の兵部の項中、第二十八巻の中に肥後の国の地名だろうという「二重馬牧(ふたえのうままき)」と「波良馬牧(はらのうままき)」の記述がみられると。そこに「二重牧の馬は、良い馬は都に献上、それ以外は大宰府の兵馬か肥後の国やその他の国の駅馬にすること」といった内容も記されとる。阿蘇で良い馬が作られるということが、都にまで伝わっていて、それをアテにされとったってことが伝わっとるよね。


加藤さんが改易されて細川さんが肥後入りした時も、加藤さんが行っとった「催合制度」を継承して、原野を共同利用させるごとしたと。催合に入会すると阿蘇の野原ば使えるよって制度たい。明治の時代になると馬から牛の割合が増えてゆくとけど、この「共同利用」の理念な変わらん。そうやって阿蘇の人々は、広大な野原ば守ってきなはったとよ。

昭和の時代になって阿蘇国立公園が指定されたけど、その頃の見所としては「火口」だの「草千里」だので、今のごと草原そのものについての評価は大してなかったとけどね。


新着情報 熊本城
 
久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ



















新着情報 東雲楼
 
人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける

東雲楼はもうなかけど、本店の旧日本亭は、ついこの間まで現存しとったと。それでも解体を惜しむ声もむなしく、2009年には解体されっしもうた。アパートとして人が住んでたとにね。寂しかこつよねぇ。
保存ば望んで有志が、地元財界などにも声ばかけたらしかばってん、資金繰りは難しくって、苦肉の策で明治の建物を保存したり移築して積極的に保存しとる愛知県の「博物館明治村」に頼ってみたけど、遊郭の説明ば子供たちにするとが難しかってことでお断りばうけっしもうたらしか。負の遺産も遺産。臭かもんに蓋をするってのも、いかがなものかと思いとけどね。

ただ、熊本地震のこつば考えると、建物そのものももちろんやけど、人的被害も出とったかもわからん。あのままアパートとして存続していなくて良かったのかとも思うとよね。二本木んにきも、相当に被害が出とったもんね。

さてさてこの東雲楼は、70からあった二本木遊郭の楼の一つ。そこで働いとった人は男女合わせて100人を超えるってことやから、かなり大きなお店やね。旧日本亭が本店やったごた。

東雲(しののめ)は、空のこと。夜明けには闇夜に光が注いで茜色にそまるやろ?そのこつたい。数千坪の敷地に、東海道五十三次を模した立派なお庭が作られとって、完成するまで10年かかったんと。

もともと京町んにきに遊郭はあったとけど、西南戦争のときに全部焼けっしもうた。
そこで移転したのが二本木。そうして東雲楼もできたんやね。1877年明治10年のこつばい。

二本木は、熊本市に編入されるまでは飽託(ほうた)郡の古町村やったと。平安時代から800年の間、肥後の国府がおかれてとって、そのころはおおいに栄えとったらしか。北に北岡や花岡山、万日山のあって、東に白川、西は白坪や城南の平野が、そして南には白川河口が望めるもんやから、「まご四神相応の都のごたんね」って言われとったって。遊郭が移ってきたときには、田畑ばっかやったごたるけどね。


明治の時代から流行したは端唄に東雲節があって、その歌詞に

何をくよくよ川端柳 こがるるなんとしょ
水の流れを見て暮らす 東雲のストライキ
さりとはつらいネ
てなこと おっしゃいましたかね

自由廃業で廓は出たが こがるるなんとしょ
行き場がないのでくずひろい 東雲のストライキ
さりとはつらいネ
てなこと おっしゃいましたかね


ってところがある。

明治5年に娼妓解放令が出されて、その内容な「娼妓芸妓へ貸す所の金銀、並に売掛滞金等、一切債るべからざる事」ってとこ。それを受けてか、廃娼運動家、キリスト教系がほとんどやったみたいやけど、その人たちが遊女たちに「自由廃業」を勧めたんと。自由廃業は、自分の意志で廓から遊女をやめて出るってことたい。辛い思いばしとる遊女たちな、そりゃ自由を獲得しようとがまだすやろうたい。

これだけやと「東雲楼のこつば歌ったかどうかわからん」ってことになるよね。

名古屋の娼妓東雲が、アメリカ人の宣教師の助けがあって自由廃業した話をうたっているって話もあるし、熊本の東雲楼でストライキが起こったって話もある。どちがほんなこてかは、よくわからんとよね。ストライキっていうと、大人数で行うようなイメージがあるばってん、一人でもストライキはストライキやもん。「名古屋の東雲楼は大店じゃなかったから、この話に沿わん」っていうとも、成り立たん。

ただこの歌の元歌と言われているものは

祇園山から二本木見れば
金はなかしま 家も質
東雲のストライキ
さりとはつらいね
てなこと仰しゃいましたかね


「金はなかしま 家も質」の部分は東雲楼主中島茂七さんのこととかけて、「さりとはつらいね」は、当時の東雲楼の帳場主任だった「斉藤さん」に掛けていたというもので、案外「これが正しい解釈やなかろうか」とは思うとよね。「ない」を「なか」っていうし、「さいとう」は「さりとう」って発音したりすっもんね、熊本は。

1870年代明治のはじめね。女紅場っちゅう女子に読み書きやそろばん、裁縫や手芸といった教育ば施す教育機関が盛んにできたと。のこと。この東雲楼の中島さんも、遊女たちのために女紅場ば作ったとよ。明治34年6月25日ことばい。その前の年、日本亭、のちの東雲楼の本店の主人茂公(中島茂七さん)は新聞に、「さすがに茂公なりと感服する者あり。彼が進んで抱え娼妓に自由に勝手に何時でも [自由廃業を] せよと申し渡せし故、かえって自ら廃業せんとする者なく勉強し居る由。」と書かれていたらしいわ。

実際にそれまでは、遊女に自由廃業を勧めるような人は近づけないようにしとらした。自由廃業したいと申し出る人も増えたし、それができない人は警察に泣きついたりもしとったごたるよぉ。東雲楼はかなりの痛手をうけたとよ。抑えきれんごとなったとよ、そういったムーブメントば。そこでその当時の法律を率先して尊重する事を示したり、労働環境の改善のアピールとして女紅場を作ったり、自由廃業をきちんと説明したりしたっていうのが、ほんなことやなかろうか。こういう一連が、「東雲楼のストライキ」ってことなんやなかろうかね。花岡山に遊女たちが立てこもってストライキばしたって話は語られてはいるし、映画にもなっとるけど、そういったことは文書として残っとらんって話も聞いたばい。

そうそう、世の中がそういった流れにある中で、1926年、二本木遊郭のお店の一つ「松緑楼」に、家族の困窮ば救うために小学校の女教師が身売りしてきたってことが新聞なんかに取り上げられたと。受け取ったお金は420円だったらしか。1円が大体今のお金の7千円ぐらいだとして、3百万円前後じゃなかろか?25歳だったんと。楼主たちは、ストライキ騒動が落ち着いたとこにきて、こういった話はスキャンダル。楼主たちが話し合って420円を作り、300円を困窮している家族に寄付までして上で、女教師を松緑楼の帳簿と裁縫を担当する女性として雇い入れるってことで収束させたって。ちょっとづつ風当たりが強くなってきたところで、こういった「お騒がせ」は、楼主たちも困ったろうたい。なんとか「よか話」で落ち着かせたかったと思うばい。

そうそう、必殺仕事人でおりくを演じとった山田五十鈴さんのお父上、山田九州男さんは、この二本木遊郭のお生まれたい。新派の俳優さんやったと。新派って言えば、愛染かつらば書いた川口松太郎さんが、演目ば提供しとったよね。水曜スペシャル川口浩探検隊のお父上たい。まぁ、その話はよかばってん、山田五十鈴さんは、山田九州男さんと北新地の売れっ子芸者のお母上との間にできた長女。あの圧倒的な色気は、「だからこそ」かもしれんね。


新着情報 高森千本桜
 
いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな

阿蘇外輪山の南東部の阿蘇くじゅう国立公園特別地域内にある国道265号線の旧道には、ヘアピンカーブが続き、九十九曲がりって呼ばれとる場所があると。その場所は高森峠も含んどるとばってん、そこにずっと桜の木が植わっとるとよ。

千本桜というとるけど、実際には1000本どころじゃなか。6000本はあっとよ。桜の名所として、みんなが毎年開花時期ば楽しみにしとると。













新着情報 八千代座
 
もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし

明治43年1910年に山鹿に建設された芝居小屋の八千代座。その頃の山鹿といえば、菊池川の水運や豊前街道の陸路の利便性などで、要所になっとったと。物資は自然に集まるし、温泉場ではあるし、大層な賑わいやったと。山鹿で名士と言われる旦那衆な、もっと山鹿の町ば繁栄させようと組合ば作りなはって、一株30円の株ば募ったとよ。それで完成させたとが、八千代座ばい。

廻り舞台やスッポンといった舞台装置は、今でも使用が可能。舞台の上の方にあって道具などを吊り下げる葡萄棚や天井広告、花道、桟敷席、桝席、奈落といったもんな、歌舞伎小屋の特徴的な作りたい。芝居小屋がどぎゃんなっとったとか今に伝えるちて貴重な建物つたいね。木造建築やけど、要所要所に鉄製の装置もそなわっとる。廻り舞台のレールは、戦時中には「大砲王」と呼ばれたドイツのクルップが作った製品が使われとるよ。歌舞伎や動写真、新劇、コンサート、小学校の学芸会などに利用されとったと。地域住民の娯楽として愛されとったつよ。

でも戦後、急激にテレビの普及が進んだり娯楽の多様性が目立つようになってくると、映画界と同様に、芝居小屋も廃れていったと。それは全国的に見る傾向で、各地に芝居小屋はあったつばってん、ほとんどが廃業に追い込まれていったとよ。八千代座も例外ではなかったと。

昭和48年1973年に老人会の総会がここで行われ、それが八千代座最後の利用になったつ。閉館されたとよ。昭和55年1980年には、八千代座組合が建物を山鹿市に寄贈したと。でも維持しようとする動きはなく、雨漏りしたりで、建物の老朽化はどんどん進んでいったと。見るに見かねたとだろうね。昭和61年1986年には、八千代座復興期成会が発足されたと。活発な募金活動で、平成元年1989年には一般公開に踏み切り、平成8年1996年には大修理が開始されたと。平成13年2001年に完成したとよね。左の写真はさくら湯ばってんね。

そこまでの道のりには坂東玉三郎さんのご尽力も大きくて、山鹿の人たちは坂東玉三郎さんが大好き。それに玉三郎さんも山鹿ば忘れんと、毎年なにかと公演に来てくださると。こぎゃんな田舎に玉三郎さんが!って感じで、なんかびっくりするばい。


新着情報 井樋橋水門
 
春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ

井樋橋は、加藤清正さんが潤川流域のかんがい用に設置したと。石をたたんで造られとって、そこには馬門石が使われとる。富合町田尻・南田尻地区にあるばい。

慶長13年1608年に築造。そこは荒れ野原やったとに、海水が農業用水に混ざるのば防ぐこの橋が完成してから、立派か農地に生まれ変わったと。木製の観音開きの水門な潮の満ち引きにより自動で開閉すると。動力がないのにきちんと動く、とても素晴らしか構造やったとばい。ずっとその機能ば果たしとったとけど、熊本地震で壊れっしもうた。それによって大潮のときには海水が橋から見て1キロ程度遡上してしまうごとなって、加藤清正さんの作ってくれた橋がずっとずっと役に立っとったとやねってことが、再確認されたと。

もちろん今の技術で同じ機能の橋はできるばい。先日仮橋もできた。でも、あの井樋橋に愛着があったとだもん。再建を望む声は高かよ。2006年に旧富合町が町有形文化財に指定して、市が文化財に指定するための協議を推し進めとったところやった…。





新着情報 万田坑
 
高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ

日本は明治の時代になって、世界と対等に話し合いの場に建てるごつ、近代化に頑張ったとよね。石炭産業はそれに伴って伸びた産業で、荒尾や大牟田(福岡)もまた、炭鉱のおかげで大いににぎわったと。

荒尾の万田坑は大牟田の宮原坑の約1.5kmほど南に開かれた炭鉱ばい。三井が総力を挙げて作らしたと。当時のインテリジェンスは最高水準の教育を受けた華族や氏族がどうしても多くなったけど、炭鉱の技術者や経営陣にも、華族や氏族の人が多かったごたるね。万田坑は竪坑としては日本で最大級。明治30年1897年から明治35年1902年に第一竪坑が作られて、明治31年1898年から明治41年1908年に第二竪坑が作られたとばい。


大正から昭和になるとますます石炭の需要は増えて、それに対応するために、施設を電化したりして、設備や機械も充実させたと。それによって、出炭量もますます増えたとよね。

でも資源は限りがあるものだんね。昭和26年1951年には採炭効率が低下してきたこともあって採炭を中止したと。第一竪坑にあった施設なんかは解体されっしもうた。第二竪坑に関しては、揚水や坑内管理のために、平成9年1997年までは、施設は維持されとった。ただもう、採掘するってことでは機能しとらんだったよね。なんさま世の中は、石炭ではなく、石油へ、そして原子力への夢ば語るごとなっていっとったとよ。

でも歴史的に大変貴重な万田坑やもん、第二竪坑・ヤグラ、巻揚機室、倉庫およびポンプ室、安全燈室および浴室、事務所、山ノ神祭祀施設などが平成10年1998年に、国の重要文化財に指定されたと。明治から大正にかけて行われた近代化の波と、優れた炭鉱の技術を今に伝える最大級の施設だけんね。
平成12年2000年には、国史跡にも登録されとるよ。これは第一竪坑跡、汽罐場跡、坑内トロッコ軌条、職場、プラットホームなんかが対象やけど、採炭や選炭、運炭といった炭鉱そのもののシステムや技術を伝える施設として、炭鉱施設唯一の登録だん。

一般公開は平成22年2010年からばい。

万田坑を含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコ世界文化遺産に登録されたとは、平成27年2015年のこつばい。
荒尾市のHPには詳しゅう書かれとるよ。

http://www.city.arao.lg.jp/q/aview/389/902.html


新着情報 江藤家住宅
 
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり

文化的に貴重で、そこが住居として使われていた時に、住みながらにして国の重要文化財に指定されることがあるやろ?不思議なもんで、家って生きとる。住んでいる家と住んでいない家とでは、死んでる家と生きている家っていう違いがあっとよ。人が住まんと、家は死ぬと。

大津の江藤家も、住みながらにして家を守り続けとんなはっと。国の重要文化財なん。男手が無くなって女性だけの家になってしまったときには大変だったごたるよ。大きな大きな武家風の家だけんね、手が行き届かんたい。その時には、近所の方々が交代で夜間に宿直しなはったり、掃除をしなはったりして、守り続けてくれたらしか。今でも広大な敷地の掃除や草取りなんかは、近所の人や消防団が協力してくれとっとって。

もともと江藤家は、豊後の国のご出身やったごた。主家は大友氏。大友氏は鎌倉時代には九州三人衆といわれるほどやったと。関が原の戦いのときに、大友氏な負けっしもうた。その大友さんが主家やったってことで、江藤さんげも 微妙な感じになってしもうたとだろうね。江戸の初期にこの地に移ってきなはったごた。

ちょうど白河中流域の水利工事なんかを細川藩が始めとったりして、ここら辺一帯は作物の取れる豊かしか土地になっていったとばってん、江藤家初代は大津、その頃の合志郡陣内村やね、そこに根ば下して開発地主になりなはったらしか。「豪農」になったとよ。

細川藩はいっつでも財政難で、それが代々膨れ上がりながら次の殿様に受け継がれるちゅうこつが続いとったもんで、巻き返さんば!って、「お金ばくれたら武士格ばやるばい」っていう「寸志差上げ」の制度を作ったとよね。江藤家はもともと武士で、時代の流れの中でそれを失っただけの話やからね、武士格を手にしたいっていうのは当たり前。その特に再度武士格を手にすることになったと。それに地域の安定や発展に尽力してきた江藤家が武士格を得ることは、地域にとってもこの上ないこと。そうやって、江藤家は人々から慕われ続けているとよね。今でも10年に1度ある、阿蘇窪田神社御幸行列のお道具が、江藤家で管理されとるよ。その一行は、江藤家から出発しなはる。地域に尽くし、地域もまた江藤家を支えとる。

このお屋敷は農村部、特に肥後の農村部にはほんとに珍しか武家風で、豪華で美しか。6227平方メートル(1887坪)で、なんさま熊本城の本丸よりもでかいらしいわ。 明治の時代になると、404町1反5畝18歩の田畑を持っている豪農として、大きな影響力を持つようになったと。でもそれを私服としてがめつく蓄えるってことではなく、地域の人のために役立てていったんよね。自由民権運動が活発になったときには、民権派の中で大きな地位を占めていたし、明治半ばには政界にも進出なさったごた。その頃の政治家って、ちゃんと志があって、人のために尽くす気概があった人が多かもんね。 そうやって慕われ、人に尽くしてきたとて、戦後に農地改革があったやろ?地主は、農地ば手放さにゃんならんようになったと。その時に、江藤家も大変やったごた。でも今まで尽くし、慕われしとったからこそやろね、主も頑張りなはったばってん、地域の人たちも大いに協力して、この家屋は当時のままで今でも存続しとる。

ただ、熊本地震の影響で、平成28年度は一般公開や定期公開といった公開予定が中止になったと。 29年度な、どげんなっとだろうか。 大津町教育委員会 生涯学習課 生涯学習係に問い合わせるとよかとだろうね。

http://www.town.ozu.kumamoto.jp/product/kanko/eto.html

西日本新聞には「住んで守る」ってシリーズがあっとけど、そこには江藤家のような日本各地の「住んで守っとる家」のことが書かれとるよ。面白かよ。




新着情報 寂心さんの楠
 
春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山

大きな大きな楠ばい。熊本県の指定天然記念物になっとる。樹齢はざっと800年とってよ この木の根元んとこにゃ、「隈本城」の城主になった鹿子木親員さんのお墓が巻き込まれとるって言われとっと。

鹿子木親員さんな鹿子木氏10代目当主。鹿子木は難しかばってん「かのこぎ」って読むとばい。もともと地名よ。この鹿子木さんの一族は、鎌倉幕府の時代に源頼朝さんから命令されて、鹿子木荘の地頭になったと。その時に三池貞教が苗字ば変えて「鹿子木」姓ば名乗るごつなったとよ。10代目当主鹿子木親員さんが、明后五年に隈本城に移るようになるまで鹿子木ば統治した一族たい。鹿子木親員さんな、入道して厳松軒寂心と号したと。だけん「寂心(じゃくしん)さん」の名で親しまれとっとよ。 そのころって肥後のあたりは、かなり紛争が絶えなくって、寂心さんな仲介に頑張ったりで、平和になるごと尽力しなはった。なかなかの教養人で、寺社の後興や造営を行ったし謡曲の「檜垣」「藤崎」なんかもこの方が作ったし、多くの和歌も残されとる。文武両道って方だったんよ。

隈本城は熊本県立第一高等学校をあたりにあったんやけど、これは明応5年、1496年に寂心さんが築いた城。茶臼山の西南部に位置しとるよ。豊臣秀吉さんがの九州平定に乗り出したやろ?その後で、佐々成政さんが城主になったと。佐々成政は功を焦りすぎたっちゅうか、「穏やかに平定する」ってことば しきりんさらんだった。ここは「国人」って呼ばれとる土地に密着した武士たちの力が強くて、その人たちの佐々成政さんの統治に対する不満が爆発した国衆一揆がおこったと。天正15年、1587年のこつばい。

こういった時代には特に、寂心さんの統治を懐かしんだだろうし、「良か人だったぁ」って思いも募ろうね。佐々成政さんのあとが加藤清正さんばってん、この人も「心をもって肥後の統治にあたる」って気色で肥後入りしんなはったやろ?細川さんも加藤清正公に敬意を表する気色をもって、肥後入りしんなはった。だから肥後の人々は、暖かく向かい入れたとよ。「良か御殿様」だんね。

楠の下に寂心さんの墓石が巻き込まれとる。だからこの木は「寂心さんの楠」なん。1月11日が命日やから、毎年神事がおこなわれとるよ。今でも慕われとるよ。


新着情報 旧酒井家住宅
 
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ

旧境家住宅は、熊本県玉名郡和水町江田の肥後民家村構内にあると。熊本県玉名郡玉東町原倉から移築されたと。文政13年1830年に建てられたっていうとが、柱墨書からわかったとよ。国指定の文化財ばい。

土間棟と居間の2棟がくっついて建てられとって、前から見ると寄棟造りになっとると。裏から見てみると、屋根は二つなんよね。県北では代表的な民家の建て方で、「二棟造り」っていうとってよ。中に玉名の地域で使われとった生活用品やら農具やらが展示されとるばい。外から見るよりも中に入ると開放的な感じがして、案外住みいいような気のするね。

ようもきれいに残っとるもんやねぇって感心するよ。


新着情報 波奈之丸船屋形
 
ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れ

波奈之丸は「なみなしまる」って読むと。 江戸時代には参勤交代が始まったやろ?細川さんだっちゃ、当然参勤交代せにゃんならん。陸路のみならず、海路も使わにゃん。そこで細川忠興が建造したとが「波奈之丸」たい。いわゆる御座船やね。「細川家波奈之丸舟屋形」は 国指定文化財になっとるよ。

江戸宝永年間の1704年から1711年ころは、大分県の鶴崎な肥後熊本細川氏の飛び地領地やったと。江戸参勤の時は、ここが海路の発着地になっとた。播磨国室津、今の兵庫県相生市やね。そこまで乗舟したとよ。作ったのは豊前中津やばってん、鶴崎で「波奈之丸」は管理されとったし、波奈之丸だけでなく、ほかの百余艘っていう藩船が置かれとった。鶴崎は京や大阪との交易でたいへん栄えた港町ったいね。 芸能も盛んな鶴崎には、細川さんの旅の無事を祈って送り出すときに歌った歌が残されとるよ。 「御舟歌」たい。  

音に聞へし 八代の 景は筆にも 延べがたし エイ  
鏡の池の 壱りおし 己が影をやつまと 見るらんと エイ  
口すみ見ぬる 其人も 心づくしの 旅そかし  
実にやいにしへ 西行のおふ つらねしうたにも おしなめてん  
ゑひ物をおもわぬ 人にだに エイ 
心つくる 秋の惣と エイ  
かように詠みし 言の葉も かゝる折にや 花咲いづる 葉き原の  
袖も尾花に 続キぬる エイ 
ふもとの里の 山あらし エイ  
遠寺の鐘に 夢さめて エイ つきす渡る 名取川


そんな波奈之丸も天保5年、1834年に焼失してしまったと。そこで細川家11代目当主細川斉護さんが同10年1839年に再建。細川さんは熊本城の補修や洪水、飢饉、疫病といった天災なんやらかんやらで、いつでも経済的にひっ迫しとったったいね。斉護さんのころには、藩は破たん寸前。80万両っていう膨大な借金ば抱えとったと。「治める」って大変なんやね。

それでも参勤交代は立派に行わんばならん。波奈之丸を守るように100隻前後の船が囲んで、瀬戸内海ば渡ったと。 1000人以上の家臣がそれらの船に分かれて乗っとったとよ。船頭と水夫のも1000人以上。波奈之丸は46からの櫓を92人の水夫が漕いどったらしか。

明治の時代になって(明治4年1871年)廃船されたとばってん、一部だけ繋留地の鶴崎に保存されとったと。あまりに立派やけん、取り壊すのは忍びなかもんね。昭和37年1962年に解体修理した後、熊本城小天守閣1階に移設。翌年には完成して、展示されることになったつよ。「御茶風呂」「御座の間(居間の役割たいね)」「次の間」の3つの部屋と2階部分が展示されとるよ。これは船体の中央部にあたると。 室内の襖や格天井には装飾画は施されとって、まご美しか。風流人だった細川さんらしい出来栄えばい。矢野派の絵師に書かせたごたんね。



新着情報 青井阿蘇神社
風そよぐ ならの小川の 夕暮は みそぎぞ夏の しるしなりける

地元の人たちからは、「青井さん」って呼ばれとるごたんね。本殿など5棟の建造物が国宝になっとる。阿蘇神社が震災で、大きな被害を受けっしもうたってこともあるにはあろうけんど、国宝になってから参拝者なグッと増えたごたんもんね。 阿蘇神社12柱の3柱、建磐龍命とその后神、阿蘇津媛命、そしてそのお子の国造速甕玉神がお祀りされとると。

日本って万事寛容でゆるゆるだから、神仏習合が行われとったやろ?建磐龍命が十一面観音、阿蘇津媛命が不動明王、国造速甕玉神が毘沙門天ってとこで本地仏にしとらしたと。神体に仏像をお祀りしとったんよ。でも寛文5年1665年には「唯一神道にせんば!」って改替したんやけどね。

本殿、廊、幣殿、拝殿の中心的社殿と楼門の5棟は、人吉藩初代藩主相良長毎とその筆頭家老相良清兵衛の発起して建てなはった。慶長15年、1610年から慶長18年までかかったごたんね。特に桃山様式の楼門な、ほんなこて素晴らしか。

この楼門の天井には雄と雌の龍が描かれてあるとけど、その龍が楼門の前にある蓮池に、毎晩一緒にお水ば飲みに行きなはるらしかよ。かわいらしかね。 境内社には稲荷神社、興護神社、宮地嶽神社、大神宮の4神社があるとけど、昔は10余社程度あったって話ばい。 大神宮のよこに人吉最大の楠があって、これは天然記念物指定を受け取る。

本社神霊が初めて鎮座した ところなんだと。神木よ。根回りは18メートルあて、樹高19メートルあると。楠は長生きで大きゅうならすね。 歴史的にも特筆すべきって感じのことが多かと。でも書ききれん。

http://www.aoisan.jp/

HPが読み応えあったばい。

相良清兵衛

なんでか相良長毎さんより相良清兵衛のほうが、地元では有名な気のすんねぇ。

相良清兵衛さんなお稚児さん、いわゆる寺院に預けられとる剃髪する前の子のことね、牛若丸もそうやろ?そのお稚児さんやったけど、水俣城の籠城の事件のときに、寺ば抜け出して一緒に父親と籠城したとって。信心する気持ちの強かった人だったとだろたい。

すったらもんだらあって相良清兵衛は津軽に流刑されてそこで生涯を終えるとけど、青森県弘前市相良町は相良清兵衛が住んどったからつけられた地名なんばい。家康公に仕えた功績もあって、流刑といえど実質強制隠居・蟄居ってとこやね。ただ熊本から遠く離れた青森で生涯を終えるってのは、寂しいもんはあったとじゃなかろか。「いやな人」の名前を土地に付けることは日本じゃあまりなかことだけん、青森でも好かれとったとじゃなかろか。だいたい才気があるってことで、知られとった人じゃあっとよ。


新着情報 霊台橋
 
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ

江戸時代に作られた石造単一アーチ橋と中で、霊台橋の大きさは日本一。国指定の重要文化財になっとるよ。 緑川本流に架けられとる。

矢部の方に抜ける「船津峡」は
日向往還の一部で交通の要なのに、それはそれは難所やったんよ。橋ができるまでは渡し船で渡っとったらしかけど、流れが急ですぐに増水するもんで、何かあれば渡し船が出せんだったごた。すぐすぐの知らせなんかは、付文した弓を射って渡しとったらしか。忍者みたいやね。

江戸中期になっと、木の橋ば架けたと。でも木の橋ば渡してもすぐに流失するしで、そりゃ、困っとっただろうたい。 砥用手永惣庄屋の篠原善兵衛さんが石橋を架ける計画ば立てなはった。 手永って、「てなが」って読むとけど、細川のお殿様が領地に導入した行政制度
「手永制」に基づくもんたい。だけん、ここら辺特有のもんたいね。藩内を手永っていう小区域に分けて、そこに惣庄屋っていう管轄の最高責任者ば置くと。だから篠原善兵衛さんな、砥用手永の最高責任者やったってとこたい。

みんなが困っとったとだけん、峙原村の伴七(茂見伴右衛門)さんが補佐しなはったし、工事自体は種山手永の宇助さんが棟梁になって工事は進められたと。72人からの石工が各地から集められたとばい。この種山手永には、種山石工っていう石工の技術者集団のおらしたと。宇助さんもその一人たい。眼鏡橋が得意やったとやろね。明治や大正の時代になってもその技術力はとても頼りにされとって、種山石工の末裔やお弟子さんたちは、熊本のみならず、全国各地で眼鏡橋を作って回ったと。

こうやって何かしらの大工事のあっと、職人さんたちが住むところってのが必要となるやろ?大工さんたちが住んどったとだろうね、ここらへんにきに「迎大工町」って地名もあっとよ。大工ば迎えた町ってとこやろね。お城なんかの大工事ほど、町は栄えるたい。

篠原善兵衛さんな、自分のお金も出してこの橋を完成させたと。弘化3年、1846年から弘化4年。1847年で行われたん。梅雨の時期や台風の襲来を避けにゃんならんもんで、7か月程度で完成させんばならんだった。農民たちも協力して、みんなで一生懸命にがまだして作ったもんで、計画よりも早ように工事は終わったと。

中国に「孟子」があるやろ?その中に、農民も頑張ったけん工期が短こうして済んだって話があっとよ。文王霊台建造の話なんやけど、篠原善兵衛さんな「その話に似とるばい!」って、この橋の名前を「霊台橋」にしたらしかよ。その当時じゃほかにないぐらい大きな橋やったし、物見台の意味の「霊台」っていうのは、ぴったりやったろうね。これでもわかるごつ、当時の惣庄屋は人に慕われる人がなるもんやから、教養人やったとばいね。村のインテリジェンスよ。

こういった話は時代劇なんかば見るとよくわかるよ。おすすめは映画の「殿、利息でござる」かにゃ。仙台藩の貧しい村で本当にあった話ばってん、村の仕組みがよくわかるばい。

http://www.khb-tv.co.jp/s015/tono-gozaru/index.html


話ば戻そうかね。
種山石工が頼まれて作る石橋な、そこに住んどる人がお金ば出し合うて作るもんがほとんどやから、かかるお金ばスマートにせんばならんでしょ?だから欄干もなかごつ慎ましい橋の多かったと。でもこの橋は深い谷に掛けにゃんから、欄干もあるし、補強用の石垣も作られとったと。でも技術力は半端なかったもんで、その30年前に作られた雄亀滝橋のとき霊台橋のときに生み出された技術は、その7年後に作られた通潤橋にも生かされたつよね。石の間にわずかな隙間すらなく、できて160年もたった今でも、素晴らしかってわかるもんたい。いまでこそ観光橋になってしもうたけど、ずっとずっと生活に密着しとったとだもん。

でもね、よほどに大変な工事だったとだろうたい。棟梁の卯助さんな、それから石橋を作らんごとなったとって。心労がトラウマになってしもうて、見たくも無くなってしまったとかもしれんね。

熊本地震で勾欄にわずかなずれが生じたごたる。

肥後の石工は匠集団として全国的にも有名たい、八代には肥後の石工のことが学べるテーマパークみたいな資料館があっと。ぜひ行ってみてほしかよぉ。熊本国府高等学校パソコン同好会が製作した情報ページが詳しかよ。

東陽町 石匠館

http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/isibasi/sekisk.html



新着情報 六殿神社楼門
 
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき

治承2年1178年に、平清盛の長男でありながら少々不遇な人生ば歩んだ平重盛が、自分が祈願所にしていた武蔵国の六孫王大権現を勧請して作られたといわれとると。ただ「楼門ばだれが建てたとかいな」って話には諸説あって、木原山に城ば築いた源為朝や、平安末期にここらを治めとった木原氏が建てたって話も伝わっとる。楼門が国の重要文化財に指定されたのは明治40年1907年ばってん、熊本県下の建造物としては一番に指定ば受けたとよ。

楼門は天文18年1549年に宇土城主の名和氏が建てなはったと。屋根は入母屋造のかやぶき、装飾も複雑で美しく、これは室町時代の典型的な建築様式だん。釘ば一本も使こうとらんらしか。慶長5年1600年に加藤清正さんが宇土城を攻撃せにゃならんで、結局勝ったとけど、その時に木原を通りなはったとよね。そこから楼門ば見て、焼けとらんで無事やったことを確認して、その無事ば喜びなはったと。そうして「この神社に軍勢の乱暴や放火、竹木伐採したらいかん。もしそんなことばしたもんがあったら厳罰に処す」って内容の制札を境内に建てさせたごた。この制札もまだ残っとうよ。

加藤清正さんな虎を狩ったとか、いろいろと「強い武将だった」って話が残っとるけど、先人を敬ったり歴史を大切にしたりと、繊細なところもあったと。だから人気があるとよね。

西南戦争のとき、さまざまな歴史的に意味も意義もあるものが焼けてしまったりしとる。なかなか崩れん西郷さんの兵に、政府軍はなりふり構わんと立ち向かうしかなかったとだろう。でも、文化財や美術品が焼けてしまうといった配慮のなさは、なんとも頂けんね。官軍だけが悪いわけじゃなか、反政府軍だけが悪いわけでもなか。両方の言い分はわかるばってん、失われたものは戻らんとよ。



新着情報 通潤橋
 ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは

通潤橋は「つうじゅんきょう」て読むと。熊本県上益城郡山都町にあっとよ。石造単アーチ橋で、江戸時代の嘉永7年1854年に作られたと。白糸台地ってところは、水に恵まれとらんだった。この地に阿蘇の方から水ば届けにゃんから、通潤用水上井手(うわいで)水路が作られたと。通潤橋は、その水管が通っとるよ。阿蘇の外輪山の南側の緑川水系五老ヶ滝川の谷に架けられとる。

水量の調節やら、石やらゴミやらば取り除くことが目的で、この通潤橋はちょうど真ん中あたりから放水されるごとなっとっと。その姿な圧巻よ。観光客も放水される姿ば見にこらす。

単一アーチ式水路石橋っていうとは技術的に当時としては高く、珍しいもんだった。それが見事に仕上がっとるこの橋は貴重やん。昭和35年1960年には、国の重要文化財の指定を受けたと。指定は霊台橋より7年早かったわ。

この建設に踏み切ったとは、矢部手永の惣庄屋布田保之助さん。開墾の功績は素晴らしく、天保大飢饉のときにはその地域に飢饉は一切なかったもんだけん、褒美が出たほどやったと。才覚がおありやったとだろ。公に対して私欲や私心を捨てて尽くすことが、この方の心情やった。「自分が死んでも神格化せんでほしか」といった気持ちもあったらしかばい。立派か人よ。


雄亀滝橋や霊台橋と同じ肥後の石工集団種山石工の仕事。この種山石工の技術力は高くって、通潤橋を作るのに、この二つの難しい架橋を行ったことが、十二分に生かされとる。鹿児島にも肥後の石工が作った橋がよぉけいのこっとるよ。他の藩からもお呼びがかかるほどやったと。種山石工には、様々な逸話が残っとるよ。

当時では他にみられないような技術が施されとっとだろうね。この橋が完成するとき、それまで架けていた木枠ば外さにゃん。もし途中で失敗しとったら、この木枠ば外した時にばらばらに崩れたりするかもしれん。緊張しただろね。橋の真ん中に白装束の保之助さんが座って、石工頭も何かあったら切腹すっために短刀を懐に抱いて、木枠を外す作業に望んだらしか。

こういった肥後の石工の末裔は、あの軍艦島の基礎工事にも携わったとよ。軍艦島は端島っちゅう吹けば飛ぶような島。そこに大規模な炭鉱を作るには、島を海から守る護岸作りが最優先事項たいね。それを作ったのが小山秀之進率いる肥後の石工だったと。今の軍艦島の大きさは端島だったころの6倍。こういった人工島を作ることを可能にしたのが石橋で培われた技術力だったとよ。波の抵抗ばうまく逃がす綿密な計算に基づいた構造になっとるごたる。すごかね。

種山石工岩永三五郎さん


雄亀滝橋は欄干もなかごた質素な橋ばってん、霊台橋の30年前に作られとったと。文化14年1817年、種山石工だった岩永三五郎さんが作ったと。今の美里町にあるばい。こん橋も「柏川井手水路」の一部で、種山石工の通水橋や難所に橋を架ける三五郎さんとそれに続く石工たちの技術力の高さは、こうやって伸びていったってことやろね。三五郎さんのものとしては初期の橋ばい。完成したときには、

これを見て矢部手永の惣庄屋布田保之助な、三五郎さんに「うちのところの仕事ばしてほしか」って言いなはったらしか。この人こそが、通潤橋の建設に踏み切った惣庄屋なんよ。惣庄屋は大体が世襲で、後々選出になっていったばってん、受け継ぐもんのしっかりした人物であれば、そのまま世襲しなはった。通潤橋は雄亀滝橋の作られた40年近くもあとのことだけん、なんさま布田保之助さんな12歳前後やもん。若い保之助が「自分が惣庄になったときには!」って、夢ば語りなはったとかもわからんね。それが通潤橋として実現したとばいねぇ。

こういった石工は、何かと秘密ば知ってしまう。三五郎さんな薩摩藩に呼ばれて橋を作った時には、橋の一部の石ば抜いたら全部が崩れ落ちるちゅう技術ば取り入れとった橋もあると。敵が侵入してきたときに使うもんたいね。でも他藩の三五郎さんがそういったことまで知っとるちゅうのは、薩摩藩にとっては都合の悪かこつ。秘密ば知りすぎとる三五郎さんを肥後に帰さんと、最後に殺してしまおうと考えるのは、当時ではごく珍しかことでもなか。三五郎さんな覚悟すっとよ。ほかの石工たちばボチボチ地元に帰して、自分が最後に残ったと。案の定刺客が来て、三五郎さんば殺そうとした。覚悟を決めとった三五郎さんの振る舞いは実に立派で、腹の座っとって、刺客も武士だもんでその意気地に心ば打たれると。殺しきらんだったとよ。

城の設計や施工が受けた人とか秘密ば知りすぎとっけん、最後に殺されるってことは、当時じゃ珍しゅうはなかったらしか。受けた時点で、ある程度の覚悟があってのことやろうね…。若干物語としての着色はあるものの、この史実ばもとに書かれた今西祐行さんの児童文学「肥後の石工」は、多くの賞ば取なはったし、教科書にも使われたばい。鹿児島の石橋記念館に岩永三五郎さんの碑があるよ。ありゃりゃ、殺そうとしなはったとだろうに!って、ちょっとは物言いしたくなるけどねぇ。

http://www.seika-spc.co.jp/ishi/?page_id=1534

熊本地震で通水感が損傷して、橋のあたりは立ち入り禁止になったばい。長年ビクともせんと頑張ってきた橋でも大地震は壊してしまうとやね。

そうそう、熊本ではこの種山石工に話をドラマにしたと。見た?
郷土の偉人シリーズってドキュメンタリードラマば、TKUがいつも作っとるやろ?あのひとつたい。

http://www.city.yatsushiro.lg.jp/kiji0036360/index.html


新着情報 旧熊本藩八代城主浜御茶屋(松浜軒)庭園
 
今来むと 言ひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな

元禄元年の1688年に、八代城三代目当主松井直之さんが、お母さんの崇芳院尼のために建てなはった御茶屋が松浜軒。浜の茶屋とも呼ばれとるよ。

加藤清正公の跡目を継いだ加藤忠広公は、寛永9年の1632年に改易されっしもうた。嫡男であった光広さんが諸大名の名前と花押を真似て謀反の連判状を作って遊んだことが明るみになったのがその理由だって言われとる。子供のいたずらだとはいえ、ちょっと度が過ぎたってことだろたい。とはいえ、本当にその理由だとも考えにくいところもあって、実際は殿様として家臣を掌握できていなかったこととか、法度違反をした疑いがあることとかが原因じゃないかっていう説もあると。まざ、そんなこんなで改易されると、そのあとで細川忠利さんがお殿様になりなはった。その当時は一国に一城って決まりがあったとけど、ここだけは島津藩をけん制する意味合いもあって、八代の城は例外的に認められとった。その八代城代を治めたとが、松井家たいね。熊本藩の支藩の扱いになっと。

その三代目が直之さんたい。その方が松浜軒ば作りなはったと。阿蘇山や金峰山、雲仙岳といった風情を借景にして、四季折々に変化が楽しめるきれいなお庭た作られたばっかりのときにはまだ干拓なんかもしとらんだったけん、八代の海の浜も近こうに望めた。その松林から抜けてくる風の音がなんとも心打たれるもんやったらしか。だからこの名がつけられたとよね。

三万石といえど古くから続いた家柄。宝物も余計持っとらすよ。それを展示している松井文庫の資料館も、同じ敷地内にあるよ。国の名勝に指定されとるよ。


新着情報 豊前街道/南関御茶屋跡/腹切坂
 
吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ

肥後藩の参勤交代は、陸路と回路を使っとったと。行きはまず豊前街道で小倉まで陸路を使って移動して、そこから御座船で瀬戸内を渡って兵庫まで行って、東海道を陸路で江戸に向かったとのことたい。大体34日から40日ほどかかっとる。帰り道は中山道を使って兵庫まで出て、そこから海路を使って大分に上陸してお城を目指したごたんよ。だいたい1億円かかる旅だったごた。

南関の国指定の史跡「豊前街道南関御茶屋跡」は、お城から江戸に向かうときの肥後の領土内最後の休憩地、宿泊地なんばい。これを過ぎると他国になっと。篤姫も、薩摩から江戸に渡る途中によって休息しなはったって。

使い勝手の関係や古くなった関係で、たびたび建て替えは行われとったごたる。今残っとる建物は嘉永3年1850年に着手して、嘉永5年1852年に完成した分の建物。南北に長い造りになっとって御居間、御次の間、三の間があると。藩主細川氏の九曜紋の鬼瓦や軒瓦が見られるばい。小さな庭園もあっと。良好な状態だったから、遺構の約7割が嘉永年間のまんまなん。国の史跡に指定されとるよ。

明治の時代には旅館として使われとって、白秋の歓迎会もここで行われたらしか。昭和の最後の方の時代になると、皆からとんと忘れられる存在になっとったけどね。かなり傷んで来とったから、国の史跡に指定するのは緊急事項だったと。

豊前街道の腹切坂も同じく国の史跡に指定されとる。すぐ近くばい。

長い長い坂道で、なんで「腹切坂」って呼ばれとるかについては、2つの説があっと。ひとつは源平の時代にまでさかのぼっとる。

腹切坂の由来


約800年前、平氏は壇ノ浦で大敗してしもうた。九州の各地を落ちて行ったものへの源氏の落ち武者狩りは厳しかったと。落ち武者は逃げる途中で打たれたり、逃走の疲れで病になって死んだりしたと。この坂を落ち武者が逃げていたとけど、風が気を揺らす音を「源氏の追討の手が伸びた」って勘違いしたとよね。矢傷を負った一人の武士が足手まといになるとば避けて、「どうか逃げ延びてくれ」と自分で腹を切って果てたと。これがその地の村の人々が語り継ぐことになって、「腹切坂」と呼ばれるごとなった、っていうとがひとつ。

もうひとつは江戸時代のこと。

江戸からの飛脚が、「今日のうちに細川のお殿様に届けなければならない書状」をもって、この坂に差し掛かったとらしか。でも南の関、今の南関やね。そこで食べたものの悪かったとだろね。お腹を下して、何度も何度も用を足さねばならん状態になってしもうた。食当たりやったとだろう。この坂のところに来たときには意識も朦朧となっとった。半ば這うごとして何とか道のりを進んどったけど、坂がきつくてへたり込んでしもうた。

途中で出会ったお百姓さんに「あとどのくらいで坂の頂上だろうか」って尋ねると「今半分がたやろ」ということば言ったらしか。「坂の中間だ」ってことが言いたかったとに、飛脚は勝手に「中間って!江戸からの300百里が中間で、まだ熊本城まで300里あるとか!」って勘違いしなはった。しっかりした頭やったらば、そんな勘違いもせんだったろうに。よほど憔悴しとったとだろ。大事なご用事が果たせないとならば…と責任ば感じて、ここでお百姓さんから鎌ば借りて、腹ば切って自害したらしか。それで「腹切坂」って呼ばれるごとなったって話。

ただの飛脚やったら町民。切腹は許されとらんし、そんな重大な役目は家臣が行うもんたい。ただ、秘密裡に届けないかん書状なら、身分ば隠すために、帯刀しとらんだったかもしれんたいね。町民姿や飛脚の姿でカモフラージュしとったとだろ。それなりの身分の人が飛脚になったとだけん、お家の一大事にかかわる書状だったとだろ。

どっちが由来かわわからんばってん、どのみち痛ましか話ばいね。



新着情報 田原坂
 
月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど

「越すに越せない田原坂」って一文があまりに有名かけん、全国でも田原坂のことば知っとる人は多かよ。熊本県熊本市北区植木町豊岡にきの地名で、国の史跡に指定されとる西南戦争の古戦場たい。

「田原坂」の歌は
雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂
右手に血刀左手に手綱、馬上豊かな美少年春は桜秋ならもみじ、夢も田原の草枕田原坂
雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂
右手に血刀左手に手綱、馬上豊かな美少年
ああ田原坂あ田原坂あ田原坂あ田原坂田原坂あああ


って歌詞やけど植木町の熊本市立五霊中学校では、卒業式で歌うってことが伝統だってばい。

激戦地やったもんで、幽霊が出るって言われとる。夏になるとテレビなんかが霊能者ば連れてきて、「ああ、苦しか」とか騒いどるね。ほんなこつかはわからん。なんとなく夜は寂しすぎて、行かんがマシって気はするばってんね。

西南の役の弾痕が残っている弾痕の家が見られるよ。その弾痕がたくさんありすぎて「激戦」ば偲ばるるけど、よほど命中率が悪かったとじゃなかろうか…とも思うわ。偶然のごとして当たるとば見越して、じゃんじゃん打ったとかもしれんね。
実際に薩軍の士魂に推されて、警視隊選抜の士族で構成された白兵戦部隊抜刀隊の投入で、ようやく戦局が変わったとだもんね。

資料館はものすごくきれいになっとって、見てわかりやすく楽しめる構成になっとるよ。行ってない人は、ぜひ行ってみて。

http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?type=A&id=216

ここが日本赤十字の発祥の地やから、その情報も学べるごつなっとるよ。そうそう、佐賀県の鳥栖が薬で有名になった背景には、西南戦争があると。この戦争のときに薬が大量に必要で、この時に多くの商家が膏薬作りに熱中したとよ。



新着情報 チブサン古墳
 
このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに

チブサン古墳は、山鹿市にある装飾古墳ばい。国の史跡に指定されとるよ。


ここら辺にきは古墳も多かけど、山に横穴の墓がポコポコ開いとって、ここに住んどった人の中には、貯蔵庫みたいな使い方をしてたりしとった人もおったよ。それだけ生活の中にあったってことやね。「古墳の里」になってから、そういった遺跡ば倉庫につかってるもの具合の悪かけん、なんとなくみんな辞めなはったとじゃなかろうか。


6世紀初めの古墳時代に作られた前方後円墳。中の壁画は原色が美しか絵ばい。こういった古墳は石人が守っとる。

壁画に描かれとる文様が女性の乳房に見えるもんで、「チブサン古墳」って呼ばれとる。「乳の神様」ってことで、信仰されとるよ。胸が小さい人は「大きくならんかにゃ」ってお願いするし、「母乳が出てほしか」ってお願いする人もおらすよね。女性特有の胸の病気にならんごとってお願いするひとも、近頃じゃ増えたごた。
同じ時期に史跡に指定されたオブサン古墳もこの近くにあると。200メートルほど離れたとこにあるよ。「チブサン」があるから「オブサン」って命名したごた。
この古墳ば閉塞しとった石は、西南戦争で割れっしもうた。今では復元させたけど、西南戦争のときの弾痕が残っとるよ。


新着情報 祇園橋
 
小倉山 峰の紅葉ば 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ

熊本県天草市の町山口川に架かる石橋で、北詰めに祇園社があるもんで、正式な名前がないとけど、古くから祇園橋って呼ばれとるらしか。天保3年1832年に町山口村の惣庄屋やろね、大谷健之助が発起人になって、下浦村の石屋辰右衛門が棟梁として造られたと。


今では日本百名橋に選ばれとるよ。この地方には石造アーチ橋が多くみられるけど、祇園橋は石造の板橋に近しい桁橋構造になっとると。石材は下浦産の砂岩を加工して作られとるよ。

天草の乱の一連で激戦区の一つになったとも伝えられとるけど、実際にその史実が記載されている文献は残っとらんらしと。

かかわりはもちろんあったとだろうけど、様々な話が観光振興のために作られたとやないかって疑いもあったのは事実たい。反対に言えば「そういう事実はなかった」って断言する材料もなかと。またあらたな資料が見つかったりしたときには、きちんと裏付ける話も出てくるかもしれんけどね。




新着情報 旧酒井家住宅
 
山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり

江戸時代になると日本は鎖国政策をとって、あまり海外と交わらないようになったもんで「侵略される」といったことからも遠のいとったよね。日本の詳しい情報っっていうとが、海外に流れとらんだったってことは、案外大きなことかもしれん。でもそれより前には、中国大陸からの侵略の危機っていうのもあったとよ。

約1300年前の七世紀には、アジアが緊迫状態にあって、大和朝廷はそれに備えないかんだった。 663年の「白村江(はくすきのえ)の戦い」では、唐と新羅の連合軍にかなりの痛手を負わされてしまっていたしね。今の菊地のあたりも防衛の最前線やから、山城が作られたと。鞠智城もその一つ。「続日本紀」には、「大宰府をして大野(おおの)、基肄、鞠智の三城を繕治せしむ」と書かれとるよ。でもある程度アジア諸国が落ち着いた7世紀末になると、律令制の導入とともに、軍事施設だった鞠智城も、役所の機能として働くようになったと。
8世紀後半からは、物資貯蔵としての機能を持つような施設に代わって、間もなく無くなったばってんね。

今わかっている山城の中で、唯一の八角形建物跡があると。歴史的にもとても重要だから、平成16年2004年には、国の史跡に指定されたとよ。


新着情報 五高記念館
 
白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける

第五高等学校は、今の熊本大学の前身ばい。
明治27年、1894年に第一次高等学校令が制定されて、大正7年、1918年に第二次高等学校令が制定されたと。

明治19年、1886年の第一次中学校令で、第一から第五と、山口と鹿児島の7官立高等中学校ができたんやけど、鹿児島の官立高等中学校以外の6校が、第一次高等学校令で改組されたったい。今の高校とは違って、大学教養課程に相当するものだん。のちに第八高、今の名古屋大学やね、これを加わえ、全部番号がついとったから、「ナンバースクール」って呼ばれとったよ。



第五校は今でも当時の化学実験室や通称赤門って呼ばれとる正門が、その時の場所に残っとって、そういった形で校舎が残っとるもんは五校だけだん。五高記念館として国の重要文化財になっとるし、その設計図も同じく国の重要文化財ばい。英国風の建物で赤レンガが美しいと。記念館として一般公開されるようになったとは、平成5年のこと。教室が復元されとるし、6つの展示室には、五校の歴史や構造なんかも公開されとるよ。


夏目漱石や小泉八雲も教えとったよ。夏目漱石に、熊本は気に入られとったとだろうか。「坊ちゃん」みたいなことはなかったとだろうね。あれは第五高に来る前の愛媛県尋常中学校での教師生活をもとに書いとるから、熊本は気に入ってもらえたとだろ。
そうそう、展示室には、夏目漱石が作った試験問題もあるとばい。


新着情報 花房飛行場跡
 
八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり

熊本県菊池市泗水町吉富は、花房台地なん。そこに第二次大戦時は花房飛行場があったと。昭和10年から作られ始めて、完成したのは昭和15年。いまの泗水を見ると、長閑しいばかしで、空襲なんかなかったっちゃなかろうかと思とったばってん、父ちゃんや母ちゃんに聞くと「なんてや!ちゃんと大空襲のあったとばい!飛行場のあったとだけん」っていわす。その飛行場が「花房飛行場」たい。1945年の昭和20年。ほんに終戦直前たいね。空襲があったとよ。飛行場のの施設はことごとく破壊されっしもうて、36名の命が失われたげな。

福岡の太刀洗の平和記念館があんまり立派で、それを見とった後だけん、泗水の資料館つうか、資料コーナーはあんまり寂しげで、なんだかなぁって思うけど、あっちは「東洋一」の飛行場。比べたらいかんね。もっともっと資料なっとあれば、良かもののできるとかもしれん。

飛行場跡地を歩き回ると、ところどころに面影なっと見付けらるるばい。ただの壁かと思うとったら、弾薬庫の基礎部分だったり、農機具小屋かなんかかいなとおもうとったら、それも倉庫だったり。その基礎部分ば利用して、物置を作ったりしとるところもあっと。なんかもう、今の生活にびちゃっと同化しとるとだんね。同化しとるごとしてそれでも違和感があるもんで、なんとなく「名残やね」とはわかる。よくよく見れば、大空襲の時の弾痕なんかも残っとる。

航空隊営門と衛兵立哨舎跡は、門柱と衛兵立哨舎の基礎部分が残っとって、それとわかる。
前の道は似つかわしくなく幅広でまっすぐで、それもここに飛行場があったことを偲ばせるもんやね。

高架水槽は、しっかと残っとるよ。これにも弾痕がついとる。比較的元の形に近い形で残っているものに、弾薬庫がある。弾薬庫なんだから、窓も無いとけど、ここは終戦の次の年に開拓者として入植した引揚者、復員者、戦災者の住居として使われとったらしか。戦災者もさることながら、復員して来たり引き揚げてきただけでも大変なのに、いざ帰ってきても住む場所がないということは、案外あったこと。終戦間際に空襲にあってしまったことも、一因じゃあったろうたい。また、来民の話なんかもある。

ナーバスな話だけん説明が難しいとけど、希望をもって大陸に渡り、終戦で命からがら大陸から引き揚げてきても、帰った先でまたひどい仕打ちを受けた話なん。人の心が荒んでいたからもあろうけど、人はみんな幸せになる権利があるよね。平等でなくっちゃならんよね。

戦後70年やもん、なにかと忘れ去らるることも多くって、ほんなこつ、これでよかとだろうかと不安にもなるばってん、こういう風景ば見ると「ほんとに戦争はあったとやね。こんな田舎でも大変だったとばいね」って、考え込んでしまうよ。

廃墟マニアには、結構人気があるとばい。行ってみて!


新着情報 生善院観音堂
 
嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり

真言宗智山派の寺院で、熊本県球磨郡水上村にあるとばい。狛犬が置かれとうのがふつうやろ?でもね、ここは「狛猫」が置かれとうと。変わっとうよね。これは化け猫騒動があったからとたい。「猫寺」とも呼ばれとうよ。観音堂の中の須弥壇嵌板にも猫が彫られとっと。須弥壇って「しゅみだん」て読むと。お寺では、本尊を安置する場所のことで、一段高いところに作られとるとよ。古代インドでは、聖なる山が精神世界の中心にあるって考えられとって、それが須弥山。ご安置するちょっと高い場所を、須弥山に見立てたんやね。

観音堂が作られたとは寛永2年、西暦で言うと1625年。とっても古かし、歴史を伝える意味でも重要な役目がある観音堂は、国の重要文化財に指定されとっとばい。

猫騒動のことば話そうね。

むかし普門寺ってお寺がここにあったと。そこの五代目住持やった盛誉法印は、もともと湯山地頭の次男坊やったんやけど、11歳から出家しなはったんよ。この頃は戦国時代から安土桃山時代にかけてのころやから、何かと後継者争いなんかが起こって、その度に戦いがあったり、あまり平和とは言えない時代やもん。肥後の戦国大名やった相良氏第18代当主の相良義陽が亡くなった後も、やっぱり後継者争いが起こったと。結局は相良忠房さんが後継者になったんやけど、後継者争いのときの敵は、許せんと思ったんやろうね。盛誉法印も敵の方の味方をしたんやなかろうかって疑ごうて、成敗することにしたと。でも、これは全くの誤解。盛誉法印は無実だったと。すぐにそのことはわかったんやけど、その時には成敗しなっせ!って命令されとった人が、殺そうと向かっていた時やったと。すぐに「中止中止!」って言いに行かせたんやけど、中止を伝えるお使いの人が、途中で酒ば食ろうて、寝てしまったと。それで間に合わず、盛誉法印は殺されっしもうた…。

それを恨んだ盛誉法印の母親は、呪いをかけるために、その頃信仰を集めていた熊本県水上村と宮崎県椎葉村、西米良村にまたがとる市房山の市房神社に籠ってから、呪いの儀式ばしたと。その時、可愛がっとった猫の玉垂にも、よーと言って聞かせたとよね。そして呪いは入水自殺で完了したと。

それからどんどんどんどん、盛誉法印殺しに関わった人たちが死んでゆくと。成敗の命令を下した忠房は14歳で死んでしもうたし、その後も呪いは続いたもんやから、忠房のあとを継いだ相良頼房が生善院ば建てたと。それだけでなく、盛誉法印の命日には、当主も領民も必ず参詣するごと命令して、ようやく呪いが解けたっちゅう話ばい。盛誉法印には「権大僧都法院」って称号も与えたとよ。死んで花実が咲くものかって思うけんど、ちょっとは満足しなはったとやね。えらい長く呪ったもんやねぇ。根性モンやねぇ。


新着情報 水前寺成趣園
 
さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづくも同じ 秋の夕暮

水前寺公園って呼ばれとるよ。昭和4年1929年に、国の名勝および国の史跡に指定されたと。面積約7万3000平方メートルで、豊かな阿蘇伏流水が湧出して作った池を囲むごとして作られた桃山式回遊庭園たい。東海道五十三次の景勝を模しとっと。だから二本木の遊郭東雲楼も、こんな感じのお庭にしたとだろうかね。

初代藩主の細川忠利さんな寛永13年1636年から築きなはった「水前寺御茶屋」から始まっとっと。細川綱利さんのときには泉水や築山などが作られて、今見るのと同じようなお庭に完成したらしか。中国魏晋南北朝時代の文学者だった陶淵明さんの詩「帰去来辞」の一節に「園日渉以成趣」があると。書き下し文だと「園、日に渉って以って趣を成す」やね。「田園の中に身を置いて日々を送り、趣きを得る生活」のことば言っとらすとでしょうね。そういった場所であって欲しかねって気持ちもあったとやろね。そこから「成趣園」と名付けられらしかよ。大体細川のお殿様な雅な方やから、こういうセンスは抜群たい。

http://www.suizenji.or.jp/

明治10年1877年の西南戦争の戦いで、この庭園の中心だった御茶屋「酔月亭」は焼失してしまったと。泉水や築山なんかも荒れ果ててしもうたとよ。薩軍官軍どちらにも理があったとだろうけど、こういったことが納得ならん。戦争な、人の命も文化も歴史もめちゃくちゃにするばいね。これを憂いた地元ん有志が払い下げを要望するなどして、なんとか守ったとよ。

ここでスイゼンジノリが発見されたとばい。九州の一部だけに自生しとる食用の淡水産藍藻類たい。これば使った化粧品が、密やかに人気ばい。


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